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七代目中村歌右衛門 十代目中村福助 襲名披露会見が開かれました
今年4月に第五期として新開場した歌舞伎座では初の襲名披露興行となります。1889(明治22)年に開場した歌舞伎座は、1911(明治44)年の7月~10月に改装され11月に第二期として新開場、その落成記念興行は五代目歌右衛門の襲名披露興行でもありました。また1951(昭和26)年1月に第四期歌舞伎座が開場、その直後の4月・5月に 六代目歌右衛門の襲名披露興行が行われています。このように歌舞伎座の節目と歌右衛門襲名は深い縁があり、七代目の襲名も柿葺落興行の最中に始まることになりました。
会見には福助、児太郎、六代目歌右衛門の息子である 中村梅玉、松竹株式会社の迫本淳一社長と安孫子正専務取締役演劇本部長が出席。福助は「最初お話しを伺った時は、夢だと思いました。六代目の叔父に憧れ、目標にして女方として歩んできたので、その名を襲名させていただくのは身の引き締まる思いです。名の大きさは父(七代目中村芝翫)からもずっと聞かされ、また、それを守ってきた六代目の素敵さを身に染みて感じています。心の師、芸の師でもあった方の名に追いつけるよう、ただただ頑張るのみです」とやや緊張の面持ちで挨拶。児太郎は「生まれた時から父が福助だったので、その名を継がせていただくのはありがたいです。まだ未熟者ですが、福助と呼ばれても違和感のない俳優になれるよう、一所懸命つとめます」と若手らしいまっすぐな姿勢で挨拶しました。また梅玉は「ここまでこぎつけましたのも、皆様のご尽力、歌右衛門の名を大事に思ってくださった諸先輩の皆様の同意があってこそと感謝しております。これで父六代目をはじめ、芝翫の兄、また先祖に顔向けができると、ホッとしています。これからは加賀屋(中村魁春・ 中村東蔵・ 中村松江)や高砂屋の私も含めた一門でさらに結束して、成駒屋の発展のために力を尽くします」と、感慨深そうな表情で語りました。
また、福助は一昨年10月に亡くなった父・芝翫への思いを「親子では照れがあるからでしょうか、父から襲名の話を聞かされたことは一度もありませんでした。今日も雨が降っていますが、父は襲名とか物事が起きるときに必ず雨が降るような雨男でしたから、天国からエールを送ってくれているという思いで見ていました」と語り、昨年12月に亡くなった義兄の 十八代目中村勘三郎については「襲名について相談もできず逝ってしまわれました。歌右衛門と勘三郎が舞台で並ぶところをご覧に入れたかったし、そのことはとても残念ですが、きっと義兄も天国から見守ってくれると思います」とやや神妙な様子で語りました。
中村歌右衛門は江戸期の初代から四代目までは立役として活躍していましたが、明治後期から昭和初期にかけて歌舞伎界のトップに君臨した五代目、戦後の歌舞伎界を牽引する存在で文化勲章など数々の栄誉を受けた六代目はともに女方の名優でした。そのため女方の大名跡として広く知られるようになった歌右衛門の名が、13年ぶりに復活することになりました。
また、中村福助の名は成駒屋にとって大切な名跡とされており、五代目歌右衛門の遺言により福助の名跡に空白があってはならないとされているといわれています。1933(昭和8)年11月に後の六代目歌右衛門が六代目福助を襲名して以降、七代目(後の七代目中村芝翫)、八代目(現・中村梅玉)、九代目(現)が切れ間なく襲名しており、十代目も新歌右衛門と同時に誕生します。